明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ボリス・バルネット『トルブナヤ通りの家』覚書



ボリス・バルネット『トルブナヤ通りの家』★★★

ナナゲイで前に見ている映画だが、そう見る機会もないと思うので、シネ・ヌーヴォでおこなわれてる「ロシア・ソビエト映画祭 in OSAKA」に見に行く。

サイレント時代のコメディの傑作だ。サイレント映画なのになぜかヴィスタ・サイズでの上映。ナナゲイでやったときもたしかヴィスタでの上映だった。ナナゲイシネ・ヌーヴォもスタンダードをちゃんとかけられる小屋だが、それでもだめだということはフィルムの問題で、技術的にだめだということなのだろう。ナナゲイでやったときに訊いて確認していたので、とくに文句はいわなかったが、マスキングで上の方の画面が隠れているのがぼんやりと見えるだけに、なんとかならなかったのかと思う(ときおり人物の顔が見えなかったりするのだ。マスクを使わずに上映するパリの・シネマテーク方式が懐かしい。サイレント映画ヴィスタで見るのは居心地が悪い体験だ)。上映時間も、記載の98分より30分ぐらい短かった。サイレント・スピードでないとこんなに上映時間が変わったっけと思うのだが、とくに途中が飛んでいるようでもなかった(終わり方は唐突だが)。

冒頭、ビルの窓の明かりがつぎつぎと消えていき、「街は眠りにはいる」という字幕がはいる。ついで、「街は目覚める」という字幕とともに、早朝の街の光景が目の覚めるようなモンタージュで映し出されてゆく。路面電車のレールの走る街路に日が差し始め、清掃夫が舗道のゴミを片付けるのが見える。

つづいて、グリフィスの『イントレランス』の一場面を思わせる、左右をマスクでおおって縦の動きを強調した構図でとらえられた吹き抜けの階段が映し出され、階上や階下からつぎつぎと起き出してくる住人たちのあわただしい様子が、荒唐無稽なアクションとともにスピーディーに描き出されてゆく。だれもがいっせいに、布団をはたいたり、ゴミを掃き出したり、わけもなく階段を駆け上ったり駆け下りたりする。しまいには上から布団まで落ちてくるし、最上階の踊り場では、隣通しの部屋から出てきたふたりの男たちが、当たり前のように丸太をそれぞれ部屋の外に出して、薪割りをはじめる始末。あまりの勢いで斧を振るうので、床がぼろぼろと崩れ落ち、いまにも底が抜けそうだ。下の階の女がそれを見て、「廊下で薪割りは禁止されていますよ」と注意する。そんな禁止があること自体が笑わせる。この光景をキャメラが、マキノ雅弘の『恋山彦』ふうの縦移動で階段を上昇しつつとらえてみせる。この映画は一種の長屋ものでもあるのだが、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』など欧米の映画では階段が重要な舞台装置となるのが、日本の時代劇の長屋ものとはちがうところだ。

町中の場面になって、なぜか突然、アヒルをもった娘が現れ、街の真ん中で逃げ出したアヒルを拾おうとして、危うく路面電車にひかれそうになるところで画面がストップ・モーションになり、回想シーンとなる。田舎の駅での娘と年老いた祖母(?)との別れの場面。娘は都会に住む祖父に会いに行くところだ。汽車に乗った娘と見送る祖母が最後の別れをしているところに、反対方向から別の汽車がはいってきて、お互いの姿が隠れて見えなくなる。そのうちに、娘の汽車が動きはじめるのだが、いま入ってきた汽車から、娘が会いに行くことになっているはずの祖父が降りてくる。シンプルだが巧みに演出された場面だ。いざこういうシチュエーションを演出しろといわれても、こんなにふうにシンプルな演出は思い浮かばないものである。

さて、都会にたどり着いた少女は、目的の家を探すのだが、訊く人ごとにあらぬ方角を指さすのでいっこうにたどり着かない。最後にたずねようとした相手が自分と同じように紙切れの住所を頼りに家を探し回っている少女だということに気づいた娘は、うんざりとした顔で少女に適当な方角を指さしてみせる、というのがオチだ。そんなふうにしてようやくどり着いた家は、当然留守で閉まっている。途方に暮れた少女が、逃げ出したアヒルを追いかけるところでさっきのシーンに戻るというわけだ。

そこへ突然、娘の幼なじみの青年が車に乗って現れ、彼女はとりあえず彼の家に住むことになる。それが例の長屋だ。ふたりが車に乗っているところを、青年の恋人が偶然目撃し、彼女にライバル心を燃やすことになるのだが、その話はそんなにふくらまない。これはそんなちゃらちゃらした映画ではなく、階級闘争の物語なのだ(本当か?)。

娘(名前をパラーニャという)は、長屋の住人であるいけ好かない夫婦のところで女中として働きはじめる。彼女が雇われたのは、応募してきた人間のなかで、労働組合に入っていないのは彼女が初めてだったからだ。この夫婦のところで働くことになるきっかけは、中庭で主人が不器用に洗濯物を干しているところをパラーニャが助けてやるからだ。関係ないが、『稲妻』でも洗濯物がひとをつなぐきっかけとなる。田舎娘のひとの良さをいいことに、夫婦は次から次へと用事を頼んで彼女を酷使する。ここでも、けなげに仕事をこなしてゆくパラーニャの姿が、スピーディにユーモラスに描き出される。

やがて、パラーニャは、知り合いの女性から労働組合のことを教えてもらって加入する。組合員の権利を知った彼女が、一日の仕事を終えたので芝居にいってもいいかと主人にたずねると、留守番をしていろとにべもなく却下される。その芝居というのが、「バスチーユ解放」だから、これは革命の映画なのだ(本当か?)。

さて、その芝居では、舞台で使うはずのカツラが直前になって見つからず、演出家が主人のやっている床屋にカツラを探しにやってくる。そこで、パラーニャがそのカツラを届けることになり、おまけに主人はなぜか舞台で将軍の役を演じるはめになる。舞台上で民衆がバスチーユを解放するのを見ていて興奮したパラーニャは、思わず舞台に駆け上がり、壇上に上って快哉を叫ぶ。あきれた主人が、その場でパラーニャをクビにするという流れだったと思うのだが、それでとぼとぼと通りを歩いていると、市会議員の選挙の行列のなかにはいってしまう。チャップリンの『モダン・タイムス』で、トラックから落ちた赤い旗をチャーリーが拾って持ち主に知らせようと追いかけるうちに、デモのリーダーと間違われて逮捕されてしまうシーンがあるが、ひょっとしたらこの映画を見ていたのだろうか。

その選挙でパラーニャが市会議員に選ばれたという噂が流れ、長屋は大騒ぎになる。散らかし放題だった階段はきれいに片付けられ、主人宅では歓迎会の用意がなされる(主賓が帰ってくる前に、みんな勝手に料理に手を出してしまうのだが)。奥方は、このチャンスをなんとか利用してやろうとして、パラーニャを独り占めにしようとする。しかし、結局勘違いだったことがわかり、パラーニャは今度こそクビになるのだが、主人が労働組合から違約金その他を命じられるところで映画は唐突に終わる。

とにかく、人もキャメラも、一瞬たりとじっとしていない。楽しい映画だ。