シャルナス・バルタス*1についてはこれまでにも何度か名前を出したことはあるが、ちゃんと紹介したことはなかったので、簡単にまとめておく。
1964年、リトアニアに生まれる。ソ連邦がまさに崩壊の危機を迎えつつあり、当時まだリトアニア・ソビエト社会主義共和国と呼ばれていたこの国がようやくソ連から独立しようとしていた頃に、バルタスは映画を撮りはじめた。そして、国際的に有名になった今もリトアニアに住んで映画を撮り続けている。
バルタスはかなり若い頃からアマチュア映画を多数撮っていたようだが、本格的なデビューは、1986年の『Tofolaria』になる。シベリア南部に住む少数民族トファラル族をモノクロで撮影した短編ドキュメンタリーである*2。バルタスはこの約10年後に再びこの地を訪れ、彼らの姿を収めたドキュメンタリーともフィクションとも区別のつけがたい作品『Few of Us』を撮ることになるだろう。
『Tofolaria』を発表したことがきっかけで、モスクワにある有名な全ロシア映画大学への門戸がバルタスに開かれる。そこで彼は、初期作品に欠かせぬミューズであり、また私生活の伴侶ともなる女性カテリーナ・ゴルベワと出会う。バルタスにとっては決定的な出来事であった。
1989年、ソ連邦と同時に、ソ連に中心化されていた映画製作のシステムもが崩壊しつつある中、リトアニアで映画を撮ることを可能にするために、バルタスはインデペンデントの映画製作会社 Studija Kinema を首都ヴィリニュスに設立する。バルト三国で最初のインデペンデント映画プロダクションである。リトアニアが独立する前に、バルタスは自国の映画を独立させ、まだ長編デビュー作さえ撮る前に、自分の映画のプロデューサーになっていたわけだ。同時に、彼はこの製作会社で多くの若き映画作家たちを育てて、デビューさせてもいる。Audrius Stonys, Kristijonas Vildžiūnas, Valdas Navasaitis などといった作家たちであり、彼らの作品はこのプロダクションにスポットライトを当てるかたちで海外でも上映されている。Studija Kinema にはやがてポスト・プロダクション部門が設けられることになり、そこでは、以前に紹介したセルゲイ・ロズニツァなども仕事をしていると言う。
1992年、バルタスは長編デビュー作『Three Days』を撮る。以後、彼が撮る新作はいずれも各地の映画祭で上映され、話題を集めてきた。レオス・カラックスがその才能に注目し、『The House』に俳優として出演すると、今度はバルタスが『Pola X』で演じるというぐあいにふたりが互いの映画に出演しあっていること*3、あるいは、ゴダールが『映画史』でバルタスの作品を引用していることなど、その後のバルタスの活躍ぶりはわりとよく知られているので、ここでは割愛する。(カラックスがバルタスについてオマージュを捧げたテクストはここで読める。)
以下、個々の作品について簡単に触れておきたい。すっかり忘れていたが、『Three Days』については10年ほど前にここに書いていたことを思い出した。今なら書き足したい部分もあるが、あえてそのままにしておく。『The House』はしばらく見直していないので、ここでは『The Corridor』と『Few of Us』の2作品だけを取り上げる。
『The Corridor』(Koridorius, 1995)★★★
顔と風景。ヴィザージュとペイザージュ。それ以外に何を撮るものがあると言うのか。『Three Days』の頃からシャルナス・バルタスの映画は何も変わっていない。それはこの長編第二作でも同じである。『Three Days』と比べると、映画はますますそぎ落とされて、『Three Days』にはかすかに感じられた物語の萌芽のようなものさえここにはほとんど残ってない。
リトアニアの首都ヴィリニュスの煙を上げる工場の風景を俯瞰気味に捉えた美しくも物寂しいショットと共に映画は始まる。廃墟のような寂れた共同住居に寝起きする貧しい住民たち。彼らには名前もないし、誰一人として言葉を発しない。聞こえてくるのは子守唄のようなハミングと、隣室から漏れてくる声とも呼べないようなくぐもった喋り声ぐらいだ。セリフがない代わりに、小さな物音にいたるまで、この映画の音響は驚くほど設計されている。
ゴダールやガレルと同じく、シャルナス・バルタスもまた顔を撮る映画作家だ。しかし、彼が撮る顔には笑顔はなく、悲しみの表情さえもない。だれもが一様にメランコリックな無表情を浮かべているだけだ(覚えていないだけかもしれないが、バルタスの映画で誰かが笑っているのをわたしは見た記憶がない)。
時おり挿入される寒々とした町の風景を捉えたショットは、まるでロシアのサイレント時代の映画を見ているような錯覚を起こさせる。屋内から見える窓はいつも露光過多気味に白くつぶれていて、外の風景は見ることが出来ない。窓辺に立って何かを見ている人物の後に屋外のショットが続くことが何度かあるが、もう一度切り返されることがないので、それが人物の視線であるのかどうかも定かではない。この建物はどういう場所にあって、外とどうつながっているのだろうか。
そしてタイトルにもなっている廊下。時おり人物たちがそこを通って画面奥へと消えてゆくこの廊下はいったいどこから来てどこへと通じているのだろうか。何もこの映画が政治的な映画であるというつもりはないが、『The Corridor』が作られたのはリトアニアがソ連より独立した数年後のことだということは忘れてはならないだろう。目の前に見えているもの、それだけが映画だという厳しさがバルタスの作品にはある。しかし、それでもこの廊下に、先の見えないリトアニアの未来が象徴されていると思わないではいられない。
間隔をおいてどこからか光のさす薄暗い廊下は、どことはなしに修道院の回廊を思わせもするし、白く光る矩形の窓が二つ並ぶ部屋の光景は、ステンドグラスをバックにした教会の内部のように見えなくもない。バルタスの映画にタルコフスキーのような宗教性はないにしても、そこにはいつも神秘主義でスピリチュアルな空気が漂っている。
何度水たまりにたたきつけられても起き上がる少年のような少女(あるいは少女のような少年。カテリーナ・ゴルベワもふくめて、バルタスの映画に登場する人物は、男か女か判別しがたいアンドロジナスな属性をまとっていることが少なくない)。寒々とした中庭で燃え上がるシーツ。だれもが孤独で、一見何の希望も未来もないように見える。しかしそれでも最後には歌と踊りが生まれ、共同体の幻のようなものがぼんやりと浮かびあがる。
『Few of Us』(1996) ★★½
「我々は数少ない(few of us)。本当に数少ないのだが、それよりもいちばん恐ろしいのは、我々が分断されているということだ」(作家リブニコフ(?)の言葉。この映画のタイトルはこの言葉から来ているという)
『Three Days』『The Corridor』につづくバルタスの長編劇映画第3作。あのパウロ・ブランコが製作に絡んでいる。
『The Corridor』と比べると、屋外のショットが中心となっているという違いはあるが、この映画も顔と風景からなっていることには変わりない。トファラル族らしき老人が口にする何語ともわからない言葉を別にすると、ここにも台詞はまったくない。まぎれもなくバルタスの映画であるが、前の2作とくらべるとさらに手がかりは少なく、謎めいている。
バルタスの映画を見ていて感じるのは〈遠さ〉の感覚とでもいうべきものだ。よく知らない国の知らない町にいるというエキゾチシズムとは次元の違う〈遠さ〉とでもいうか。それをデペイズマンと呼んでいいのだろうか。ともかく『Few of Us』はそんな感覚をいちばん強く抱かせる作品である。
シベリア南部の森林地帯。上空を飛ぶヘリコプターの窓から女(カテリーナ・ゴルベワ)が下を見下ろしている。女の顔はいつものように無表情でそこからは何も読み取れない。映画は女がこの風景のなかに降り立つところから始まる。彼女はいったいだれなのか、どこから来たのか。何が目的なのか。例によって、バルタスは何も説明しようとしない。答えは観客が自分で導き出すしかないのだが、映画を見終わったところでたいした答えが得られるわけではない。
わかっているのは、ほんのわずかしか出てこない人物たちが皆アジア的な顔立ちをしている中で、西欧的な風貌の彼女がこの風景の中では異質な存在であるということだけだ。彼女と村の住人たちの間にちょっとした緊張が生まれる。驚くべきことに、ある瞬間には、彼女と彼らの間で格闘が行われ、人が死にさえするのだ。そして、彼女を追ってきたらしき男もまた、理由もなく殺される(たぶんこの男だと思うのだが、アジア系の顔をした男たちの中に一人日本人が交じっていることをあとで知って驚いた)。
だれかが書いていたが、よそからやって来たストレンジャーによって町に波乱が起きるという意味で、『Few of Us』をプリミティヴな西部劇と呼ぶことはたしかに可能だろう。しかしこの西部劇はあまりにも抽象的すぎるといわざるをえない。西部劇で町にストレンジャーがやって来るのは物語を可能にするためだとするならば、『Few of Us』のカテリーナ・ゴルベワはただ物語を発動し、フィクションを成立させるためだけにヘリコプターから降り立ったのだとも言えるだろう。ただしその物語には実質はなく、フィクションは現実により深く潜入するたにとりあえず形作られるにすぎない。
正直言って、よくわからない映画である。『The Corridor』には、同じくわからないながらも、画面から目が離せなくなるような魔術的力を感じたのだが、『Few of Us』にはそういう力が幾分欠けているようにも思う。余計なものをさらにそぎ落とされ、人物たちはますます実質を失い、あまりにも抽象的な映画になってしまっているような気がしないでもないのである。『The House』以後の作品では、実は『Indigène d'Eurasie』(2010) しか見ていないのだが、印象としては、自分のスタイルと一般的な物語映画との均衡を探りつつ試行錯誤を繰り返しているように思える。『Indigène d'Eurasie』のあとの長い沈黙がそれを証明しているのではないか。とにもかくにも、見逃している『Freedom』(2000) や最新作の『Peace to Us in Our Dreams』(2015) を見てみたいと思うのだが、いまだその機会に恵まれていない。