明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

西川美和『ゆれる』


西川美和『ゆれる』★★☆

サスペンスという言葉の原義が「宙づり」であるとするならば、渓谷にかかった不安定な吊り橋のなかほどで起きた事件の真相を、文字通り宙づりにすることで物語を成立させているこの映画は、サスペンスという言葉の意味にこの上なく忠実にしたがった作品であるということができよう。

オダギリジョーが見たであろうその光景──故意か事故か、兄(香川照之)がガソリンスタンドの同僚の女(真木よう子)を吊り橋から突き落とす瞬間の光景は、意図的に画面から排除される。その瞬間彼はキャメラを構えていたはずでありながら、そこにはなにも写っていない。はたして彼はなにを見たのか、そもそも彼はなにかを見たのか、それさえも曖昧なまま物語は進んでゆく。この中心となるイメージの欠落が、謎の解明を先延ばしにすることで物語を生産してゆく推理小説の原理(というよりも、物語の原理といったほうがいいだろうか)に則っただけのものではないことは、最後に明らかになる。香川照之は殺したのか殺していないのか、裁判で彼は無罪になるのか、そこに問題はなく、オダギリジョーが救われるかどうか、それこそが問題だったのだ。

ドラマとして見たとき、この映画はとてもよくできているといえる。検察官役で出ている木村祐一はちょっと乗りすぎていて演技が滑り気味だったが、中心となる俳優たちの演技はだいたいにおいて非常にナチュラルで、説得力がある。素晴らしい映画であるといいたいところだが、映画として見たとき、残念ながらここには新鮮な驚きを覚える瞬間がほとんどない。すべてが予定調和しているように思える。タイトルにもかかわらず、この映画は全然「ゆれる」ことがないのだ。

事件を契機に、親しかった兄が見知らぬ他人のようにオダギリジョーの前に立ち現れる。弁護士の蟹江敬三も、香川照之の行動を理解できず、「お前の兄貴がなにを考えているかわかるか?」とオダギリジョーにたずねさえする。しかし、そんな香川の一見理解しがたい言動も画面をゆらすには至らない。

さっきも書いたように、この映画が謎解きをメインにした推理ドラマではないことはたしかだが、過剰ではなく欠落によって成立している作品であることもまたたしかである。結局、すべてはその欠落を埋めるための過程にすぎなくなってしまうのだ。オダギリジョーがすべてを理解するきっかけとなる8ミリフィルムにしても、そういう役割をになわされた道具として画面に登場するにすぎない。そこには小津安二郎の『生まれてはみたけれど』で子供たちが偶然目撃してしまう8ミリフィルムのもっていたような生々しく残酷な手触りは、まったくといっていいほど欠如している。

ひとつ気になったのは、作者が女性にもかかわらず、犠牲となる女性(真木よう子)の描き方が妙に冷たいことだ。たしかに、人に頼らなければどうすることもできないようなうざったい(わたしではなく、香川照之がそういうセリフをいうんです)女ではあるが、ちょっと扱いが冷たすぎるような気がしないでもない。あるいは、女性の作者だからこそ、女性には厳しい視線が向けられるのだろうか。そうなのかもしれない。


京都シネマにて