明るい部屋:映画についての覚書

日々の映画鑑賞と研究の記録、最新DVD情報などなど。ときどき書評めいたことも。


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神戸映画資料館「連続講座 20世紀傑作映画再(発)見」第15回
国辱映画『チート』とサイレント時代の知られざるデミル
詳細はここで。

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評価の目安:

★★★★(大傑作、あるいは古典)
★★★(傑作、あるいは必見)
★★(見たほうがいい)
★(興味深い)

(基本的に、興味のない映画はここでは取り上げません。なので、ここで話題にしている時点で、それなりに見る価値はある作品であるといえます。)

ハドリー・チェイスを復刊せよ、と小さく叫んでみる


スパイダーマン3』を今日が初日のつもりで焦って近所のしょぼい映画館に見に行ったら、チケット売り場で「公開は明日からです」といわれ赤っ恥をかいてしまった。ワールドプレミアを日本でやるのはいいが、少年プロボクサーに馬鹿なレポーターがくだらない質問をしている様子が間違って世界配信されてしまったらどうしよう、などと考えて夜も眠れなくなっていたせいかもしれない。

そのまま帰るのももったいないので、映画館近くのしょぼい本屋に行って情報を収集する。柄谷行人『坂口安吾と中上健次』が文庫になっていた。というか、去年の9月に出ていたのにいま気づいた。そういえば柄谷行人の本はここしばらく全然読んでいない。収められている文章はほかで読んでいるものが結構多かったりするのだが、まとめて文庫で読めるのはいいことだ。そのうち買って読むことにしよう。


ミッキー・スピレインの『裁くのは俺だ』が平積みされていた。たしかこれはひさしぶりの再販だと思うのだが・・・。Amazon のサイトではまだ登録されていない模様で、いまのところ中古のものしか注文できない。ほしい人は本屋に走れ。ついでに、ジェイムズ・ハドリー・チェイスも復刊されることを希望する。むかし出ていた文庫は軒並み絶版になっているし、よほど人気がないのか、アメリカの Amazon.com でもハドリー・チェイスの代表作はすべて品切れ状態だ。

ちなみに『裁くのは俺だ』は、リチャード・へフロンが『探偵マイク・ハマー/俺が掟だ!』として映画化している。一昔前までは新世界などで上映していたが、いま劇場で見る機会はほとんどないだろう。傑作だとはいわないが、忘れがたいB級アクション映画の一本だ。ぜひ、DVD化してほしい作品の一つである。テレビ・ドラマで永瀬正敏が演じた濱マイクは、むろん「マイク・ハマー」のもじり。ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』の原作がミッキー・スピレインであることも、老婆心から付け加えておく(最近、教育的であろうと心がけているのだ)。

一方、ハドリー・チェイス原作の映画としては、ジョゼフ・ロージーの『エヴァの匂い』やロバート・アルドリッチ『傷だらけの挽歌』などが有名だ。しかし、ゴダールの『映画というささやかな商売の栄華と衰退』の原作がジェームズ・ハドリー・チェイスの『ソフト・センター』だというのは、にわかには信じがたく、おもわず笑ってしまう。


「ぴあ」を立ち読みしていて、『大エルミタージュ美術館展』が 5月の13日までだということに気づく。5月いっぱいぐらいまでやっていると思っていたのに、計算ミスだ。予定を変えて、『スパイダーマン3』は明日のサービスデーに京都で見ることにしよう。連休の美術館は混雑しそうでいやだが、しかたがない。そういえば、先日、「ベルギー王立美術館展」を見に梅田の国立国際美術館に行ってきたのだが、平日だったとはいえ結構がらがらだった。この美術館に入ったのは初めてだ。というか、こんな美術館ができていたとは実は知らなかった。鉄骨がむき出しになったガラス張りのエントランスをくぐるといきなり階下に通じるエスカレーターが続くという構造は、いかにもルーブルをまねたといった感じの作りになっていて、建物自体にはそれほどオリジナリティは感じられなかったけれど、なかの雰囲気は悪くなかった。

展示ホールにはいると、入り口のところにいきなりピーテル・ブリューゲル(父)の「イカロスの墜落」が目に飛び込んできて驚く。実は、この絵一枚を見るためにわざわざ出かけてきたようなもので、ほかの作品はそのついでといってもいいくらいだった。それだけに、もう少し期待感をじょじょに高めていったところで登場してほしかったのだが、これには少し拍子抜けした。しかし、そんなわたしの興奮をよそに、訪れた人々はこのブリューゲルの傑作を5、6秒ちらと眺めただけで素通りしてゆく。どこの美術館でも見慣れた光景だとはいえ、フェルメールを大阪や神戸に見に行ったときはそこだけ行列ができていたものだ。ブリューゲルはそんなに有名ではないということか(そんな馬鹿な)。ともかく、鈍感な来館者たちのおかげで、だれにも気兼ねすることなく思う存分鑑賞することができたのはよかった。

しかし、一枚の絵に対してどのような距離をとり、どれだけの時間見つめたらいいのかというのは、実をいうと、なかなか難しい問題である。

絵と彼との距離はぴったりと測定された何かであり、ひとつの作品から次の作品に移る動きにしてもすこしの乱れもなく、きわめて自然なリズムがあり、彼の視線の漂う方向に絵が吸い込まれるのだろうか、見事に停止して、そのあいだには緊張のみがある鑑賞姿勢であった。


これは、美術評論家 宮川淳が美術館で絵を見るときの様子を、友人吉田喜重が描写した文章だ(『吉田喜重 変貌の倫理』)。こんなふうに見ることができたら理想的なのだが、凡人にはなかなかそこまで到達した見方はできない。わたしの場合、後ろ髪を引かれる思いで絵をあとにし、しばらくうろうろしたあとで、人の流れに逆行してまたその絵のところに戻ってきたりと、いつも無様な見方ばかりしている。宮川氏のようなかっこいい鑑賞ができるようになることはたぶん一生ないだろう。