バスに乗った松本に、キャメラの背後に隠れたインタビュアーが語りかける。インタビュアーの姿は、ときおりガラスに映りこむ場合をのぞいて、画面に現れることはない。シネマ・ヴェリテふうの擬似ドキュメンタリー。映画はまずはそんなふうにはじまる。出だしは悪くなかった。
松本が自宅でインタビューを受けていると、突然背後の窓がパリンと割れる。嫌われ者のヒーローの家にだれかが石を投げ入れたらしい。ショットが変わると、割れた窓に紙が貼られている。薄暗くなった部屋で、何ごともなかったかのようにインタビューはつづけられる。このあたりのさりげないユーモアもなかなかいい。
インタビューのなかで、折りたたみ傘やふえるワカメといった、「巨大化する」ものがそれとなく伏線として小出しにされてゆく。公園でインタビューに答えていた松本に、突然携帯電話で連絡がはいる。いよいよ本人が巨大化するときが来たようだ。急遽バイクでどこかに向かう松本を、インタビュアーは車で追跡する。バイクはとあるゲートをくぐり抜け、なにやら大学のキャンパスを思わせる場所にはいってゆく。松本を呪詛する言葉が書かれた垂れ幕や立て看があちこちに見える。このあたりの雰囲気も悪くない。監督一作目にしてはまずまずではないか、と思ったのもつかの間、このあとが惨憺たるものだった。安っぽい CG を使った「大日本人」と巨大獣との戦いがはじまるやいなや、まったくしらけてしまい、スクリーン上で起きていることにまったく興味がもてなくなってしまった。
たとえば、北野武の映画は、芸人ビートたけしと映画作家北野武とのあいだの距離から生まれる緊迫感のなかで撮られている。そういう距離感が松本人志の映画には感じられない。テレビのなかの自分のイメージに甘えているようなところが見え隠れしてしまうのだ。わたしにはこの映画は、テレビ番組でときおり彼がやっているコントふうミニドラマを拡大したものにしか見えなかった。別に映画でなくてもよかったのではないか。
こういう映画があってもいいとは思う。ただ、この映画には数年の歳月と、5億円もの制作費がかかっていると聞く。これが本当だとすると、それはいくらなんでも時間と金のかけ過ぎだろう。数千万の予算と、2週間程度の時間があれば、これに近いテイストの作品は作れるはずである。
芸人ビートたけしのファンだったわたしは、『その男、凶暴につき』を初日に見に行って以来、まわりのシネフィルたちにバカにされ、哀れまれたりさえしながら、映画作家北野武を擁護しつづけた(その彼らが、雑誌「リュミエール」に蓮實重彦と北野武の対談が載ったとたん、「タケシも悪くないかも」などと手のひらを返したように言い始めたことを覚えている。まったく、映画の良し悪しぐらい自分で見分けろよ)。わたしは芸人松本人志の大ファンでもあるが、どうやら映画作家松本人志については、本気で応援する必要はないようだ。これには正直、ほっとしている。
天才コメディアンは、必ずしも天才的映画作家ではなかった。それだけのことである。