清水宏『都会の横顔』(53) ★½
清水宏のフィルモグラフィーにおいてはかなり晩年に作られた作品である。全盛期と比べると落ちるといわれたりもする50年代の作品だが、『都会の横顔』にはいかにも清水宏らしい部分が多々あって、なかなかに興味深い。
路面電車の最後尾から遠ざかっていく風景を後退移動撮影で捉えてみせるファースト・ショット。ここら辺でカットが変わりそうだと思える部分まで来てもショットはそのまま持続し、こっちの調子を狂わせる。ちなみに、電車の後部座席から撮られたショットで始まるというのは、『七つの海 処女編』の出だしと同じである(後退移動撮影に対する清水宏の偏愛)。
看板を持って歩く宣伝マンの男(池部良)が、迷子の娘の母親を探しながら銀座の目抜き通りを歩きまわり、一方、母親(木暮実千代)は母親で、娘を探し回る。清水が何度も描いた「母もの」とも通じる物語ではあるが、この物語はいわば口実に過ぎない。母・娘を探す物語の過程で、靴磨きの女(有馬稲子)やいんちきそうな占い師(伴淳三郎)、浮気性の会社員(森繁久彌)といった様々な人物が現れては消えてゆく。
迷子の娘は、母親とはぐれた不安など微塵も感じさせず、母親を探していることさえ早々に忘れて、食堂で出会った見知らぬ女の後を追って一人で飛び出してゆき、連れ添って歩いていた池部良からもはぐれてしまう。そこで有馬稲子も池部良とともに娘を探し始めるのだが、彼女も娘探しをすぐに忘れてしまったかのように、別の場所で靴磨きをしながら謎の靴占いをはじめたりする。母親のほうも、娘を探す途中で出会った無責任な知人の女にひきづられるようにして、ついついわき道にそれてばかりだ。
こうして物語は脱線を繰り返してゆき、これといった焦点を結ぶことなく進んでゆく。その過程で、都会の横顔を浮かび上がらせてゆくというのが、この映画の趣旨であったようだ。弱々しい物語をある種口実にして、旅=移動の中に現れる人物と風景を点景として詩情豊かに浮かび上がらせてゆくというのが、『有りがたうさん』や『按摩と女』といった清水宏の代表作のスタイルであった。その意味では、この映画はいかにも清水宏らしい作品であるといっていい。
もっとも、当初の題名は「哀・愛・会」の意味を込めた「東京あいあいあい」だったらしく、これが、「僕と彼女の青い空」、「銀座マンボ」「泣き濡れた歩道」などといった案を経て、「都会の横顔」に落ち着いたということからもわかるように、この映画は『有りがたうさん』のようなタイプの清水作品と、これも彼が得意とした「母もの」との間でどっちつかずに揺れているようなところがあり、それが作品を弱めていることもたしかである。
歩く人物を後退移動撮影で捉える清水お得意のショットはこの映画でも多用されているのだが、視界の開けた地方で撮影された諸作品とは違って、通行人でごった返した銀座の大通りでは、超ロングで人物を捉えるのも難しかっただろうし、第一、いくら移動しても風景は一向に変化せず、ただ人ごみが映し出されるばかりで、開放感もなければ、ポエジーが立ち現れる瞬間もまれでしかない。
そういう意味では、いかにも清水宏らしい作品だと思う一方で、どこかフラストレーションの残る映画ではある。